2020年4月16日木曜日

シュリー・ナーガンマとの出会い - バガヴァーンは時空を超えて働く

◇『THE MAHARSHI』、Mar/Apr 2018 Vol.28 no.2、Dennis Hartel Dr.Anil K.Sharma編著(

シュリー・ナーガンマとの出会い
1977年5月、(ニューヨークの)アルナーチャラ・アーシュラムのアルナーチャラ・バクタ・バガヴァットとデニス・ハーテルは、ボンベイを訪問中でした。シュリー・P.V.ソーマスンダラムは、ボンベイの防衛会計監査長官のシュリー・R.ヴェンカタラーマンと共に、彼らを連れてシュリー・ナーガンマを訪問しに行きました。彼女はその時、癌の治療を受けられるところに姪と共に滞在していました。彼女に会う2度目の訪問で、テープレコーダーが持ってこられ、西洋の信奉者たちのために会話が録音されました。シュリー・ナーガンマは癌に関連する痛みでひどく苦しんでいましたが、恵み深くも承諾しました。彼女は彼女の書籍から読み上げ、詩を朗読しました。その詩の中の1つは、肉体的な苦しみに耐えるために彼の力と彼の落ち着きを彼女に与えてくれるようにバガヴァーンに願い求めて、彼女が記したばかりのものでした。
    それらの会話のいくらかは、その場で英語に翻訳されました。彼女の最近の詩と録音の他の部分は、後でアーンドラ・プラデーシュ(州)のビマヴァラムのDr.リンゲーシュワラ・ラオによって翻訳されました。

 当時の彼女の置かれた状況下でナーガンマが言ったことをよりよく理解するために、私たちは彼女の2014年英語版のLetters from and Recollections of Sri Ramanasramamから第28章を以下に複写します。この章の中で、それらの訪問、そして、自分のこの世での終わりが近いと彼女に思わせた状況もまた言及されます。

第28章 忍耐(苦難、試練)

 この本の初めで、1976年2月に、私はマドラスで癌の手術を受け、その後、休息と療養のためにバンガロールとボンベイに行ったことに言及しました。その時、私は正常な健康状態を取り戻したかのように見えました。しかしながら、1977年2月、左腕の裏側に痛みが現れ、徐々に首まで広がりました。人々はたぶんリューマチ性の痛みか何かでしかないだろうと言いました。私自身は、しかしながら、疑念を抱いていました。

 私の妹の息子、バローダのインド石油化学会社の上級管理者として当時働いていた、Dr.G.R.N.シャーストリが、気分転換に彼の住まいに私を招待し、それで私はそこに行きました。1か月ほど後、痛みは大いに増し、こぶが最初の手術の場所に現れました。地元の医者たちは、私が手術後に受けたコバルト療法のためで、しばらくすると消えるかもしれないと述べましたが、それどころか、こぶは痛みとともに大きくなっていきました。そのため、私は専門家による治療のためにボンベイに戻るほか仕方ありませんでした。

 ボンベイで、癌の専門家たちに診察してもらいました。入念な検査の後、彼らは、こぶは癌性のものであると、さらなる手術については考えられないと、唯一の希望はコバルト療法にかかっているが成功は疑わしいと述べました。コバルト療法が即ちに施され、それもまたほとんど役に立たないことが分かり、中止されました。全てのアロパシーの医者たちが、その症状は回復の見込みがなく、手の施しようがないとあきらめました。その間、鎮静剤の使用にもかかわらず、責めさいなむ痛みがありました。それは1977年5月の間のことでした。

 薬による回復の望みがないため、平然と痛みに耐える力を私に与えてくださいと昼も夜も私はバガヴァーンに祈りました。私はまた詩節を書いても彼に訴えました。祈りと瞑想が私の唯一の寄る辺でした。私の力は徐々に減退し、私はほとんど寝たきりになりました。ボンベイでは私を看護するための適切な用意ができなかったため、私のいとこのG.R.サルマは、私を飛行機でバンガロールまで連れていくことに決め、実際に私のためにチケットを購入しました。

 (ラマナ)アーシュラムの会長、シュリー・T.N.ヴェンカタラーマンとその妻がそこで働いている彼らの息子に会いに偶然ボンベイにやってきたのは、その重大時でした。1977年5月14日の午後3時ごろ、彼らは、シュリー・R.ヴェンカタラーマンとその妻とともに、私を訪問しました。シュリー・R.ヴェンカタラーマンはボンベイの防衛会計監査長官であり、バガヴァーンの優れた信奉者でした。彼はホメオパシーを趣味で行っていました。彼らはみな、私が経験しているもがき苦しみにたいそう心を痛めていました。私は痛みの軽減を求めるバガヴァーンへの祈りを含んだ紙を会長に礼儀正しく手渡しました。その哀れな状況を見て、シュリー・R.ヴェンカタラーマンは、私の義理の息子のシュリー・S.R.アヴァダニを脇に連れ行き、自分がホメオパシーの治療を試せるかどうか尋ねました。アロパシーの医者たちがすでにその症状を回復の見込みはないとあきらめていたため、私たち自身がホメオパシーを試すことを考えていて、そのため、その申し出は私たちにとって天の配剤のように思われました。私たちは快くそれに承諾しました。それは私たちにとって、あたかもバガヴァーン自身がヴェンカタラーマン、彼の信奉者の1人を特別に私を治療するために送ったように思われました。ヴェンカタラーマンはその夜にも薬を調合し、彼の家は私たちの家にとても近かったため、翌朝に私たちのもとに来て、治療を始めました。それは1977年5月15日、日曜日のことでした。

 その日から、彼は日に1、2度来て、次々薬を試しました。初期の段階で痛みはかなり増し、こぶは弾けて開きました。それを好ましい兆候とみなし彼は治療を続け、ついにバガヴァーンの恩寵によって痛みは徐々に退きはじめました。その間に、パルシー教徒の信奉者が私のもとにやって来て、彼の妻は癌で亡くなったが、癌の症状に特に効果的であると報告されている薬を持つチベット人の医者がいると私に話しました。しかしながら、彼女の妻の病はその時までにあまりに進行していたため、その薬は彼女の症状には使うことはできませんでした。彼はそのチベット人の医者の特別代表がボンベイにいると、彼を私のところに連れてくると言いました。2日後、P.V.ソーマスンダラム、ニューヨークからのアルナーチャラ・バクタ・バガヴァットとカナダからの信奉者がもう1人、私に会いに来ました。同時に、チベット人の医者の特別代表も来ました。彼は私を診察し、彼の師は患者と個人的に会うことなく治療することはしないと、彼はその時チベットにいると、私がそこに行くか彼がボンベイに来るための手配をしなければならないと言いました。私は声を上げました。「チベットに行くですって!私はカイラーサ・ヤトラ(旅)に出る用意をしていて、イーシュワラの最後の呼びかけを待っているところです。私はバガヴァーンの信奉者による現在の治療に満足してます」。

 2、3日後、カナダからの信奉者、ソーマスンダラムと他の信奉者たちが来て、私は激痛に苦しんでいましたが、彼らがカナダで使うために録音するものを何か私に読んでほしいと主張しました。6月10日、痛みがかなり和らいだので、私は散歩に出かけるための十分な力を得ました。私がヴェンカタラーマンに、私はカイラーサ・ヤトラへ準備しているところだったのに、あなたは私の計画すべてを台無しにしてしまったと話したとき、彼は、私の薬が効いたので、私はあなたを代わりにアルナーチャラ・ヤトラに送り出しているところです、と涼しげに言いました。

 私はそれがバガヴァーンへの彼の厚い信仰心ゆえだったのか、それとも、彼を通じて働いているバガヴァーンの恩寵のゆえだったのか分かりませんが、こぶは次第に小さくなっていき、痛みは徐々に減りました。私は日に日に力を得て、昔のごとく自由に動き回り始めました。以前に私に会ったボンベイの信奉者たちは、断然、治癒はまさに奇跡に他ならないという意見でした。以前に私を診察したボンベイの高名な医者たちは、それをほとんど信じられませんでした。

 1977年9月まで私はボンベイに留まり、(その後)親族と一緒にヴィジャヤワーダに行き、そこに2か月ほど滞在し、私の家「ラマナ・サダナム」を引き払い、マドラスへと離れました。偶然にもシュリー・R.ヴェンカタラーマンがその時までにマドラスに転勤していて、そのため私は必要とされる薬を全て彼から受け取り、これらのスムルトゥル(記憶、上の経緯のこと)の原稿を弟のD.S.シャーストリに見せ、1977年11月27日の夜にアルナーチャラムに到着しました。翌早朝、私はアーシュラムに行き、バガヴァーンのサマーディの前で平伏しました。カイラーサ・ヤトラの準備をしているところだった者が、今やアルナーチャラ・ヤトラ中であり、今一度バガヴァーンのサマーディの前で平伏できるのは実に奇跡的なことでした。運命が大きな役割を果たしたようで、私は今一度アーシュラムに滞在するという幸運に恵まれ、アーシュラム当局の意向に従い回顧録を書いているところです。

 私が書いた原稿は信奉者の1人によって清書され、印刷の準備ができています。マカラ・サンクランティ(1月ごろに行われる祝祭)の吉日に、私のささやかな捧げ物として、私はシュリー・ラマナ・バガヴァーンの蓮華の足元に原稿を置きました。

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 こうして、1978年1月14日に、シュリー・ナーガンマはその最後の文章を締めくくりました。彼女はさらにもう2年と2か月生き、しばしばシュリー・ラマナーシュラマムに住んでいました。

 1977年5月にボンベイで行われた録音について、Dr.リンゲーシュワラ・ラオは、それを聞いた後、彼女が当日、甚だしい苦しみに耐えていたのは信じ難いと言及しました。なぜなら、彼女の声は力と幸福に満ち溢れて聞こえたからです。彼女は初めに、バガヴァーンがバガヴァッド・ギーターのある詩節についての質問に答えているReminiscences(回顧録)という題の彼女のテルグ語の本から朗読しました。その後、さらにシュリー・ナーガンマは彼女の最初のバガヴァーンへの訪問に関する私たちの質問に答えました。彼女は、「最初に私がバガヴァーンに会ったまさにその日に、私の頭上から莫大な重荷が永久に取り除かれました。私が初めて彼を見たまさにその瞬間に、私はもはや他のどこにも行く、他のどのサードゥに会う、シュリー・ラマナーシュラマム以外の他のどの聖地を訪れる必要はないことを知っていました。バガヴァーンはそれ以後、私の唯一の寄る辺でした」と言いました。

 さらに彼女はバガヴァーンのマハー・サマーディについて話しました。「バガヴァーンが亡くなったとき、私は全てのものを失ったかのように感じました。大変な空虚感が私を圧倒しましたが、徐々にひとりでに私から去りました。バガヴァーンの逝去の直後、アーシュラムには何か不安定さがあり、それで私は、私のあとに残された心を静めるために役立つだろうという希望をもって巡礼に行くことに決めました。私はカーシー、ラーメーシュワラムや他の聖地を訪れましたが、アーシュラムに戻りたいと切望しました。わたしはそこの状況が落ち着いたと聞き、それで戻りました」。

 彼女はテルグ語でいくつか詩節を書いたところで、その詩を作った理由を説明しながら話を続けました。「クリシュナ・ムールティという名前の信奉者が、誰かがバガヴァーンの痛みを自分自身に引き受ければバガヴァーンはいくらか楽になるかもしれないとバガヴァーンの病の間に私に手紙をよこしました。

 翌日、私はバガヴァーンのもとに行き、クリシュナ・ムールティの手紙を彼に読み上げ、あなたがいつもあなたに差し上げられた全ての甘味を私たちと分かち合うように、あなたは今やその痛みも平等に分かち合わなければなりませんと言い足しました。バガヴァーンはただ、「ウーム、ウーム」とだけ答えました。(注:これはほとんど何でも意味することができます。「大丈夫です」、「見てみましょう」、さらには「分かりました」の間のどこかです。彼の発言に明確な意味付けをすることは困難です。)

 シュリー・ナーガンマは続けました。「今、バガヴァーンのニルヴァーナから25年ほど後に、私も左肩に癌があります。25年の後、彼はついに私の祈りをかなえました。しかしながら、痛みは激しいものです。それで、今、私は痛みとその帰結に耐える彼の力と安らぎを私に授けてくださるよう祈っています」。

 深い感情をこめ、シュリー・ナーガンマはその詩を私たちに読み上げました。

アルナーチャラ・ラマナ!
私自身をあなたの足元に置いてこのかた
私の心は他の住まいを探さなかった。
私は決してどんな物質的獲得のためにも祈らなかった。
「恵みの授け手」よ、苦しみの中、私は今そうする。
癌は私の中に居を構え、
殺すことなく私を殺している。
私はそれが消え去ることでなく
私が勇敢に耐え忍び、委ねることを懇願する。
あなたが腫瘍に耐えた落ち着きを私に授けたまえ
私をあなたの娘にしたまえ、(それを)永遠に持つにふさわしく。
あなたが苦しむのを見るのを厭い、私は分け前を求めた。
そして今やそれは与えられ、私の力は私のもとを去った。
痛みに加え、あなたの安らぎを
私に授けたまえ、おお、主よ、「病の殺害者」よ。

 言うまでもなく、シュリー・ナーガンマの祈りは再び聞き入れられました。いえ、それ以上でした。彼女は落ち着きを授けられ、彼女の「病の殺害者」もその役割を果たしました。驚くべき治癒が続き、彼女は力を取り戻した後、数か月、ラマナーシュラマムに住むことができました。その後、バンガロールを訪問中、短期間の病の後、1980年3月31日に死すべき体を離れました。

 シュリー・ナーガンマのLetters from Sri Ramanasramamは、常に霊的文献の名著のままあるでしょう。師の中の師としてだけでなく、まことに愛すべき父、母、そして、王子と乞食にとって等しい友としても、バガヴァーンの全人格をとらえている本は他にありません。

 1980年のシュリー・ラマナーシュラマムでのナーガンマの最後の滞在の間、彼女が彼女の師であり主であるアルナーチャラ・ラマナの生誕100周年記念式典に出席したとき、ジョアンとマシュー・グリーンブラットは、彼女をしばしば訪問することによって彼女の存在を最大限生かしました。1980年6月号のMountain Pathのシュリー・ナーガンマを偲んで書かれた短い記事の中で、ジョアンは(次のように)記しました:

 「私たちは、どうやってシュリー・バガヴァーンの面前で起こった全てをそんなにも詳しく覚えているのか彼女に尋ねました。彼女は、シュリー・バガヴァーンが日課の散歩に出かけたとき、自分は講堂を離れ、メモを少し取っていたと私たちに話しました。夜、彼女は真夜中まで眠り、目覚めるとすぐ、手紙を書き始め、その少しのメモを詳しく説明したものでした。彼女はいつもシュリー・バガヴァーンが彼女のそばに座っているかのように感じました。

 「アーシュラムの皆が、彼女の存在、彼女が全く謙虚に簡素に頭を垂れてアーシュラム構内を歩いて行くのを見れないことを寂しく思うでしょう。彼女のドアはいつも信奉者たちに開かれていて、四六時中人々が行き来し、彼女の話と思い出をしきりに聞きたがったものでした。『何ごとも秘密にできないということが私の習慣になっています。聞いたことは何でも他の人に話したくなります』と彼女は言いました。

 「彼女の体の死について聞いた後、クンジュ・スワーミは一番美しく微笑み、私たちに声高に言いました。『彼女は立ち去っていません。彼女はただティルヴァンナーマライにやって来ただけです』。世界中の信奉者は、彼女が私たちに残した宝物によって(これまで)心豊かになっていて、(これからも)なり続けるでしょう。安らかな静寂の中で皆が眠る間、その深夜の寝ずの番の中で1人の女性は目を覚ましていて、そのハートの深みから記していました。彼女、シュリー・ナーガンマに、私たちはいつも感謝するでしょう」。