2013年6月1日土曜日

『アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ』  第一章 アドヤーローパ(付加)

◇『不ニの知の灯と解放の真髄(Lamp of Non-Dual Knowledge&Cream of Liberation)』

 『アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ(不ニの知の灯、Advaita bodha Deepika)』はシュリー・カルパトラ・スワーミー(Sri Karpatra Swami)がシュリー・シャンカラーチャーリヤと他の聖者らの教えを凝縮したもので、12章からなるのですが、最後の4章は失われています。英訳は、スワーミー・シュリー・ラマナナンダ・サラスワティ(Swami Sri Ramanananda Saraswathi)によるものです。前書には、シュリー・ラマナが『アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ』を高く評価していたと書かれています。(文:shiba)

アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ

第一章 アドヤーローパ(付加について)(*1)

 (7)種の苦悩(ターパトゥラヤ)(*2)に大変に悩まされ、この苦痛をもたらす存在から自由になるために束縛からの解放を強く求めて、四種のサーダナからなる長い修練により際立った弟子は、尊敬すべき師に近づき、嘆願しました。

 (8-12)「主よ、師よ、恩寵の大海よ、私はあなたに身を委ねます!どうぞ私をお救いください!」

師:
 あなたを何から救うのですか。

弟子:
 繰り返す誕生と死の恐怖からです。

師:
 サンサーラを去り、恐れないように。

弟子:
 サンサーラという広大な大海を渡れずに、私は繰り返す誕生と死を恐れています。ですから、私はあなたに身を委ねたのです。私を救うのはまさしくあなたです!

師:
 あなたのために私に何ができますか。

弟子:
 私をお救いください。私には他の寄る辺がありません。頭髪が燃えている時、炎を消すためにただ一つの適したものが水であるように、あなたのような聖者は三種の苦悩からの炎で燃えている私のような人々の唯一の寄る辺です。あなたはサンサーラの幻から自由であり、心穏やかで、始まりも終わりもない比類なきブラフマンの至福に深く浸っています。確かに、あなたはこの哀れなる者を救えます。どうかなさってください!

師:
 あなたが苦しむならば、それが私にとって何なのですか。

弟子:
 父親が子供に対するように、あなたのような聖者は他者が苦しむのを見ることに耐えられません。一切の存在へのあなたの愛には動機がありません。あなたはすべての人に共通するグルであり、サンサーラのこの大海の向こうへ我々を運ぶ唯一の舟です。

師:
 では、あなたを何が苦しめるのですか。

弟子:
 苦痛をもたらすサンサーラという冷酷な蛇の噛まれ、私は目がくらみ、苦しんでいます。師よ、どうぞこの燃え盛る地獄から私を救い、どのようにして自由になるのか私にお教え下さい。

師:(13-17)
 よくぞ言いました、我が息子よ!あなたは賢明であり、よく修練されています。弟子となるためのふさわしさを証明する必要はありません。あなたの言葉はあなたが適していることを明確に表しています。では、いいですか、我が子よ!

 実在(サット)‐知(チット)‐至福(アーナンダ)である至高の自らの中に、誰が転生する存在でありえますか。このサンサーラがどうしてありえますか。何がそれを生じさせえたのですか。そして、それはどのように、どこから生じうるのですか。不ニの現実であるため、どうしてあなたが惑わされうるのですか。深い眠りにおいて何も分離していなく、どのような様子でも変化していなく、ぐっすりと幸福に眠っていますが、目覚めると愚か者は「ああ、私は道に迷っている!」と大声で叫びます。変化せず、形なく、比類なく、幸福で満ちた自らであるあなたが、どうして「私は転生する。私はみじめだ」などと叫べますか。実のところ、誕生もなく、死もありません。生まれる者も、死ぬ者もいません。そのようなものは何もありません!

弟子:
 では、何が存在するのですか。

師:
 無始なる、終わりのない、不ニの、束縛されず、常に自由な、純粋で、気づいており、ただ一つの、比類のない至福‐知のみが存在します。

弟子:(18)
 そうであるなら、雨季の雲のかたまりのように、この力強く巨大なサンサーラという幻が、どのようにして私を深い暗闇で覆っているのか教えてください。

師:(19-20)
 この幻(マーヤー)の力について何が言えるでしょうか。郵便受けを人と間違うように、あなたは不ニで完全な自らを個人と間違えています。惑わされているため、あなたはみじめなのです。しかし、この幻はどのように生じるのでしょうか。眠っている時の夢のように、この虚偽のサンサーラはそれ自体非現実である無知の幻の中に現れます。それゆえ、あなたの思い違いなのです。

弟子:(21-24)
 無知とは何ですか。

師:
 聞きなさい。体の内に幻影、「私」なる自惚れ(うぬぼれ)が生じ、体をそれ自身であると主張します。それはジーヴァと呼ばれています。ジーヴァはいつも外へ向く傾向を持ち、世界を現実とみなし、彼自身を行為者であり、苦楽の経験者とみなし、あれやこれやを欲しがり、見分けることなく、一度も彼自身の本質を思い出すこともなく、また「私は誰か。この世界とは何か」と探求もせず、彼自身を知らずにサンサーラの中をさ迷っています。そのような自らの忘却が無知です。

弟子:(25)
 すべてのシャーストラが、このサンサーラがマーヤーの仕業であると言明しますが、あなたはそれが無知によると言います。この二つの言明はどのようにして調和されうるのですか。

師:
 この無知はマーヤー、プラダーナ(*3)、アヴヤクタ(*4)、アヴィドヤー、自然の摂理、暗闇などのように、様々な名前で呼ばれています。それゆえに、サンサーラは無知の結果でしかありません。

弟子:
 この無知は、どのようにしてサンサーラを投影するのですか。

師:
 無知は二つの側面-覆い(アーヴァラナ)と投影(ヴィクシェーパ)-を持ちます。それらから、サンサーラが生じます。覆いは二つの方法で働きます。一方で、我々は「それはない」と言い、もう一方で「それは輝き出ない」と言います。

弟子:
 それを説明して下さい。

師:
 師と生徒間の論議において、聖者はただ不ニの現実のみがあると教えますが、無知な者は「いったい何が不ニの現実なのか。いや、ありえない」と思います。無始なる覆いの結果として、教わっても教えは無視され、古い考えが続きます。そのような無関心が、覆いの第一の側面です。

 (29-30)次に、聖典と恵み深い師の教えの助けにより、彼はよく分からずに、それでも真摯に不二の現実なるものを信じますが、深く調べることができず、浅い(理解)のまま、「現実は輝き出ない」と言います。ここに、それが輝き出ないことを知る知識はありますが、しかし無知の幻は続きます。それが輝き出ないというこの幻が、覆いの第二の側面です。

弟子:(31-32)
 投影とは何ですか。

師:
 変化せず、形なく、比類なく、幸福で満ちた不二の自らであるのに、人は自分自身を手と足を持つ体、行為者、経験者とみなします。彼はこの人やあの人、これやあれを客観的に見て、惑わされます。世界に包含され、不ニの現実の上にある外側の世界を知覚する錯覚が、投影です。これが付加(アドヤーローパ)です。

弟子:(33)
 付加とは何ですか。

師:
 存在するものを存在しないものと間違うこと-縄を蛇、郵便受けを泥棒、蜃気楼を水と間違うように。現実の上の虚偽の見せかけが、付加です。

弟子:(34)
 ここでの現実のもの、土台の上の非現実の付加と何ですか。

師:
 不ニの実在‐知‐至福、もしくは、至高なるブラフマンが現実です。縄の上に蛇という虚偽の名と形が付加されるように、不ニの現実の上に感覚のある存在と感覚のないものという範疇が付加されています。そのように世界として現れる名と形が、付加を形作っています。これが非現実な現象です。

弟子:
 不二である現実の中に、この付加をもたらしうる誰が存在するのですか。

師:
 それはマーヤーです。

弟子:
 マーヤーとは何ですか。

師:
 先に述べたブラフマンについての無知です。

弟子;
 無知とは何ですか。

師:
 自らがブラフマンであるにも関わらず、自ら(がブラフマンである)の知がありません。この自らの知を妨げるものが無知です。

弟子:
 それはどのように世界を映し出しうるのですか。

師:
 土台、つまり、縄についての無知が蛇という幻を映し出すのとまさしく同様に、ブラフマンについての無知がこの世界を映し出します。

 (36)世界は付加されたものであり、(認識の)前にも(知の)後にも存在していないため、幻とみなされねばなりません。

弟子:
 どうして世界が(認識の)前にも(知の)後にも存在していないと言えるのですか。

師:
 創造されるために、創造の前に世界は存在できませんでした(つまり、世界は創造と同時にか、その後に存在するようになります)。消滅において、世界は存在できません。世界は、今その狭間で、空中に魔法により作られた都市のように現われているに過ぎません。深い眠り、ショック症状、サマーディにおいて世界が見られない限り、今でさえもそれは付加物に過ぎず、それゆえ幻ということになります。

弟子:(37)
 創造の前と消滅において、世界が存在しないならば、それでは何が存在できるのですか。

師:
 架空でなく、不二の、内から外から分化しない(アジャーティーヤ、ヴィジャーティーヤ、スヴァガタ・ベダ)、唯一の根本的存在、実在‐知‐至福、不変の現実が存在します。

弟子:
 それはどのようにして知られるのですか。

師:
 ヴェーダ曰く、「創造の前に、純粋な存在のみがあった」。ヨーガ・ヴァーシシュタもまた、それを理解する助けになります。

弟子:
 どのようにですか。

師:(38)
 ヨーガ・ヴァーシシュタ曰く、「消滅において全世界は引き戻され、不動のままあり、言葉と思いを超え、闇でも光でもなく、しかし完全である、つまりは語ることができないが、無ではない唯一の現実のみを後に残す」。

弟子:(39)
 そのような不二性の中、どうして世界が生じうるのですか。

師:
 先に述べた縄と蛇(の例)において、現実の土台についての無知が縄の中に隠されているように、根本的現実の中に無知が隠されており、別にマーヤーやアヴィドヤーと呼ばれています。後に、それはこの一切の名と形を生じさせます。

 (40-41)語られることなき知‐至福‐現実に依存する、このマーヤーは、覆い(アーヴァラナ)と投影(ヴィクシェーパ)の二つの側面を持ちます。前者はそれ自身の土台を見えないように隠し、後者により未顕現のマーヤーは心として顕在化されます。その後、心はその潜在性と戯れ、あらゆる名と形を伴う、この世界の投影に到ります。

弟子:
 以前に、他の誰かがこれを言いましたか。

師:
 ええ、ヴァーシシュタがラーマに。

弟子:
 どのようにですか。

師:(43-50)
 ブラフマンの力は無限です。それらの力の中、かの力(マーヤーの力?ヴィクシェーパ?)が顕現し、その力を通じてそれ(世界?)が輝き出ます。

弟子:
 その様々な力とは何ですか。

師:
 意識のある存在の中の意識、風の中の動き、地の中の固体性、水の中の流動性、火の中の熱、虚空の中の空所、滅びゆくものの中の朽ちゆく傾向性、そして、さらに多くの力がよく知られています。これらの性質は顕現しないままあり、その後に現れます。卵の胚の中の孔雀のきらびやかな羽の色や、小さい種の中の広がったバニヤンの木のように、それらは不ニのブラフマンの中に潜在していたはずです。

弟子:
 全ての力が唯一のブラフマンの中に潜在していたならば、どうしてそれらは同時に現れなかったのですか。

師:
 いかにして木々、草花、香草、つる性植物などの種が大地の中に全て含まれていますが、土壌や気候や季節に応じてそれらの中のいくらかだけしか芽を出さないかを見なさい。そのようにまた、顕現のための力の性質や程度は、条件により定められています。ある時、(全てのマーヤーの力の礎である)ブラフマンは考える力とつながり、この力は心として現れます。そのように、長らく眠っているマーヤーは、一切万物の共通の源である至高なるブラフマンから心として突然に活動し始めます。その後、この心は全世界を作り出します。そのようにヴァーシシュタは言います。

弟子:
 マーヤーの投影の力を形作る、この心の性質とは何ですか。

師:
 概念、もしくは、潜在的傾向を思い出すことがその性質です。心は潜在的傾向を内容として持ち、目撃する意識の中に、二つの形態(*5)-「私」と「これ」-で現れます。

弟子:
 それらの形態とは何ですか。

師:
 それらは「私」の概念と「これ」「あれ」などの概念です。

子:(52)
 この私という形態が、どのようにして目撃する意識の上に付加されるのですか。

師:
 真珠層の上に付加された銀色が真珠層を銀として表すのとまさしく同様に、根本的な目撃者の上の私という形態も、あたかも目撃者が自我と異なっておらず、自我そのものであるかのように「私」(つまり、自我)としてそれを表します。

 (53)霊に取り憑かれた人が惑わされ、全く別人のように振る舞うのとまさしく同様に、私という形態に取り憑かれた目撃者も、その本質を忘れ、それ自身を自我として表します。

弟子:(54)
 不変の目撃者が、どうしてそれ自身を変化する自我と間違いうるのですか。

師:
 自分自身が空中に持ちあげられていると感じる譫妄状態の人、我を忘れた酔っぱらった人、支離滅裂なことをわめいている気がおかしい人、夢の旅に出る夢見る人、取り憑かれて奇妙な様子で振る舞う人のように、目撃者は彼自身は汚されず不変ですが、自我という幻影の悪意ある影響下で「私」として変化したかのように見えます。

弟子:(55)
 心の私という形態は目撃者を自我として変化させて表すのですか、それとも、それ自身が目撃者の中に自我として変化して現れるのですか。

師:(56-57)
 今や、この質問は起こりえません。なぜなら、それは自らと離れて存在しないため、単独で現われえません。それゆえ、それは自らをあたかも自我へ変化したかのように表すにちがいありません。

弟子:
 さらにそれを説明して下さい。

師:
 縄の中の無知という要因はそれ自体を蛇として投影できませんが、縄を蛇のように見せるにちがいないのとまさしく同様に。水中に現われえないものが、水をあぶくや泡や波として表します。火の中にそれ自体は現われえないものが、火を火花として見せます。粘土の中で現れえないものが、粘土を壺として表します。そのようにまた、目撃者の中の力も現われえませんが、目撃者を自我として表します。

弟子:(58-60)
 師よ、マーヤーを通じて自らが個々の自我へ寸断されるとどうして言えるのですか。自らは他の何にも関係しません。それは虚空のように汚されず、不変のままあります。どうしてマーヤーがそれに影響できるのですか。自らの寸断について話すのは、「私は虚空をつかみ、それを人間へとかたどる人、または、空気を桶へと形作る人を見た」と言うのと同じように馬鹿げてはいないですか。私は今、サンサーラという大海に沈んでいます。どうぞ私をお救い下さい。

師:
 マーヤーがマーヤーと呼ばれているのは、不可能を可能にしうるからです。観客に空中の天空都市をみせる魔術師のように、それは常にそこになかったものを視界へもたらす力です。人間にこれができるならば、マーヤーがそれをできませんか。その中に馬鹿げたものは何もありません。

弟子:(62-66)
 それを私に明らかにして下さい。

師:
 では、夢の映像を呼び出す眠りの力を考えてみなさい。閉じられた部屋の中でベッドで横になっている人が眠りに落ち、夢の中で鳥や獣の形をとってさ迷います。夢見る人は家の中で眠っていますが、夢は彼をベナレスの街路やセツの砂地の上を歩いているように表します。眠る人は変わらずに横になっていますが、夢の中で彼は空に飛び上がり、真っ逆さまに奈落へ落ちます、また自分の腕を切断し、それを手に持って運びます。夢自体の中で、整合性やその他の疑問は存在しません。その中で見られるものは何であれ適切であるように見え、批判されません。単なる眠りが不可能を可能にできるならば、全能のマーヤーがこの名状しがたい世界を創造することにいったい何の不思議がありますか。それはマーヤーのまさに本質です。

 (67-74)それを例示するため、あなたにヨーガ・ヴァーシシュタからの物語を手短に話しましょう。かつてラヴァナという名の王、イクシュヴァークの家系の貴人がいました。ある日、宮廷の講堂に全ての人が集まった時、魔術師が彼の前に現れました。素早く彼は王に近づき、平伏し、「陛下、あなたに不思議なものをお見せしましょう、ご覧ください!」と言いました。すぐに、彼は孔雀羽がついた棒を王の前で振りました。王は意識が遠くなり、我を忘れ、途方もない夢のような壮大な幻を見ました。彼は自分の前に馬を見つけ、それにまたがり、森の中で狩りをしながら馬に乗って行きました。長い間の狩りの後で彼はのどが渇いていましたが、水を見つけられず、疲れてきました。ちょうどその時、低いカーストの女が土製の皿の上に粗末な食べ物をのせて偶然そこに来ました。飢えと渇きに駆り立てられ、彼は一切のカーストの制約と自分自身の品格を捨て、彼女に食べ物と飲み物を求めました。彼女はもし自分が彼の正当な妻となれるなら、彼の願いを受け入れると申し出ました。躊躇なく彼は同意し、彼女が与える食べものを食べました。それから彼女の村落へ行き、そこで夫婦として共に住み、二人の息子と一人の娘をもうけました。

 ずっと王は相変わらず玉座の上にいました。しかし、一時間半という短い間に、彼はもう一つの幻のみじめな人生を送り、それは数年に渡りました。このように、容易く不可能を可能にするマーヤーの不思議な戯れを印象づけるため、ヴァーシシュタはラーマにいくつか長い物語を話しました。

 (75-76)広がる心の力を超える幻はなく、それに惑わされない人は誰もいません。その特徴は不可能なことを成し遂げることです。何ものもその力から逃れられません。常に不変であり、汚されない自らでさえ、変化し、汚されて見えるようになっています。

弟子:
 そのようなことが、どうしてありうるのですか。

師:
 どのように分割されず、汚されない空が青く見えるのか見なさい。ラヴァナ王が低いカーストのみじめな人として生活したのとまさしく同様に、至高なる自らもまた、常に純粋であるにも関わらず、それ(マーヤー)によって自我を帯びさせられ、ジーヴァとしてまかり通るようになっています。

弟子:(77)
 至高なる自らが心の私という形態との結合により幻のジーヴァとなるならば、彼はただ一人のジーヴァとして現れるはずです。しかし、多くのジーヴァが存在します。唯一の現実が、どうして無数のジーヴァとして現われうるのですか。

師:(78-80)
 一人のジーヴァの幻が純粋な至高なる自らの中で活動するようになるとすぐに、それは純粋な知の虚空の中に他の幻のジーヴァを自然と生じさせます。鏡で囲まれた部屋に犬が入るなら、初めに一つの鏡の中に一つの反射を生じさせ、連続した反射により無数になり、気がつくと犬は大変多くの他の犬に囲まれていて、うなり、闘志を示します。不ニの純粋な意識の虚空である自らもその通りです。一人のジーヴァの幻は、否応なく複数のジーヴァの幻と関係しています。

 (81-83)また、あなた、私、彼などとして世界を見る習慣は、夢見る人の夢の中に同様の幻の存在を余儀なく見させます。同様に、過去の生の蓄積した習慣は、純粋な知の虚空のみである自らに無数の幻のジーヴァを今でさえ見させます。それ自体不可解であるマーヤーの範囲を越えて何が存在できますか。今やこれが済んだので、どのように体や星々が創造されたか聞きなさい。

 (84-85)至高なる自らがマーヤーの私という形態によって「私」と表わされるように、自らは「これ」という形態よって、その一切の内容物を伴う世界として表されます。

弟子:
 どのようにですか。

師:
 多様性の力が「これ」という形態であり、その性質は「これ」や「あれ」を想像することです。意識の虚空の中で、それは「これ」や「あれ」として何百万の潜在性を想像します。それらの潜在性にかき立てられ、ジーヴァは意識の虚空そのものであるにも関わらず、個々の体など、外界、多様なものとして現れます。

弟子:
 どのようにですか。

師:(86-89)
 はじめに、心が分割されない意識の虚空に現れます。その動きは先に述べた潜在性を形成し、様々な幻の形で現れ出します。「ここに器官と手足を持つ体がある」、「私はこの体である」-「ここに私の父がいる」、「私は彼の息子である」、「私の年齢はこれこれである」、「これらは我々の親戚と友人である」-「これは我々の家である」、「私とあなた」、「これとあれ」、「善と悪」、「楽しみと苦しみ」、「束縛と解放」、「カースト、信条、義務」、「神、人、他の生き物」、「高い、低い、中間」-「楽しむ人と楽しみ」、「何百万の星々」などのように。

弟子:
 潜在性自体が、どうしてこの広大な世界として現れうるのですか。

師:(90)
 深い眠りの中で動きなく幸福のままでいる人は、生じる潜在性によってかき立てられる時、生命と世界という幻の夢の映像を見ます。それらは彼の中にある潜在性でしかありません。目覚めの状態でもまた、彼はこの生命と世界として現れる潜在性により、惑わされています。

弟子:(91)
 では、師よ、夢は目覚めの状態において形作られ、以前には休止している心の印象の複製でしかありません。その印象は過去の経験を複製します。それゆえ、夢の映像は心の創造でしかないと正しく言われています。仮に同じことが目覚めの状態でも真実であるならば、これはなんらかの過去の印象の複製に違いありません。この目覚めの体験を生じさせるその印象とは何ですか。

師:(92)
 目覚めの状態の経験が夢の世界を生じさせるのとまさしく同様に、過去世の経験が目覚めの状態の世界を生じさせ、それでもなお幻です。

弟子:
 現在の経験が先の経験の結果であるなら、何が先の経験を生じさせたのですか。

師:
 その先の経験などからです。

弟子:
 それでは創造の時まで遡ることになります。消滅において、その一切の印象は解消されていたに違いありません。新しい創造を始めるための何が残されていたのですか。

師:
 ある日に集められるあなたの印象が深い眠りにおいて休止していて、翌日に現われるのとまさしく同様に、先行する周期(カルパ)の印象も続いて起こる周期の中に再び現れます。そのように、マーヤーのこの印象は始まりを持ちませんが、くり返しくり返し現われます。

弟子:(93)
 師よ、前日に経験したことは今思いだせます。我々はどうして過去世の経験を思い出せないのですか。

師:(94-95)
 それはできません。どのように目覚めの経験が夢の中で繰り返され、目覚めの状態と同じ方法で、しかし違った様相で把握されているのかご覧なさい。なぜでしょうか。眠りが一切の相違を作りだします。なぜなら、それが最初の認識を隠し、歪めているからです。その結果、夢の中で繰り返される同じ経験は違った様相で示され、たいてい常軌を逸し、不安定です。同じように、過去世の経験は昏睡と死により影響され、その結果、現在の環境は過去のそれと異なり、異なる方法で繰り返された同じ経験は過去を思い出せません。

弟子:(96)
 師よ、夢の映像は心の創造に過ぎず、移ろいゆき、すぐに非現実として払いのけられます。そのため、それは幻であると適切に言われています。逆に、目覚めの世界は永続すると見られており、一切の証拠はそれが現実であると示そうとします。どうしてそれが夢と共に幻であると分類できるのですか。

師:(97-98)
 夢そのものの中で、映像は真実であり、現実であると経験されます。その時、映像は非現実であると感じられません。同様に、経験する時、この目覚めの世界もまた真実であり、現実のようです。しかし、あなたが自分の本質に目覚める時、これもまた非現実として過ぎ去ります。

弟子:
 それでは、夢と目覚めの状態の違いは何ですか。

師:(99)
 両方ともがただ心によるもので、幻に過ぎません。これは疑いえません。ただ、目覚めている世界は長引く幻であり、夢は短い幻です。これが唯一の違いであり、それ以上、何もありません。

弟子:(100)
 仮に目覚めが夢に過ぎないならば、ここで誰が夢見る人ですか。

師:
 この全世界は、汚されない不ニの知‐至福の夢の産物に過ぎません。

弟子:
 しかし、夢は眠っている時にのみ起こり得ます。至高なる自らがこの夢を見るために眠りに入ったのですか。

師:
 我々の眠りは、太古の昔から自らの本質を隠している自らの無知に対応しています。そのように、自らはこの世界という夢を夢見ます。夢見る人が惑わされ、自分自身を夢の経験者であると思うように、不変の自らもまた幻によって、このサンサーラを経験するジーヴァとして表されます。

 (101)夢のような体、五感などを見る時、ジーヴァは惑わされ自分が体や五感などであると信じるようになります。それらと共に、彼は目覚め、夢、深い眠りの間をぐるぐる回ります。これが彼のサンサーラを形作ります。

弟子:(102-104)
 ジャーグラット(目覚めの状態)とは何ですか。

師:
 それは私という形態の現象であり、他の一切の心の形態、そして、関連する対象を伴います。目覚めの状態の粗大な体の中に私という性質を帯び、個人はヴィシュヴァという目覚めの状態の経験者の名で知られます。

弟子:
 夢とは何ですか。

師:
 五感が外側の活動から引き込まれた後、目覚めの状態の心の形態によって形作られる印象は、それ自体を夢の映像として複製します。この微細な状態の経験者がタイジャサとして知られています。

弟子:
 深い眠り(スシュプティ)とは何ですか。

師:
 一切の心の形態が原因となる無知の中で休止している時、それは深い眠りであると言われています。ここで、プラージニャとして知られる経験者は自らの至福を体験しています。

 (105)ジーヴァは彼の過去のカルマの働きのために、カルマが目覚め、夢、深い眠りの経験を授けるのに応じて、この回転木馬の中で回転します。これがサンサーラです。同様に、ジーヴァは過去のカルマの結果として誕生と死に従属しています。

 (106)しかしながら、それらは惑わされた心の見せかけに過ぎず、現実ではありません。彼は生まれ、死ぬように見える(だけ)です。

弟子:
 誕生と死が、どうして幻でありうるのですか。

師:
 私が言うことに注意深く耳を傾けなさい。

 (107-109)ジーヴァが眠りに圧倒される時、過去の経験を複製するために目覚めの状態の認識が新しい夢の認識にとって代わるように、もしくは、一切の外側の事物と心の活動の完全な消失があるように、死の前の昏睡に圧倒される時、現在の認識は失われ、心は休止しています。これが死です。心が新しい環境において過去の経験の複製を再開する時、その現象は誕生と呼ばれます。誕生の過程は人が、「ここに私の母がいる。私は彼女の子宮にいる。私の体はこれらの手足を持っている」と想像することに始まります。その後、彼は自分自身が世界に生まれたことを想像し、後に、「これは私の父だ。私は彼の息子だ。私の年齢はこれこれだ。これらは私の親戚と友人だ。この快適な家は私のものだ」と言います。この新しい一連の幻は、死の前の昏睡における先の幻の消失に始まり、過去の行為の結果に依存しています。

 (110-113)死の前に非現実な昏睡により圧倒されたジーヴァは、様々な過去の行為に従い様々な幻を持ちます。死の後、彼は(以下のように)信じます。「ここは天国だ。それはとても美しい。私はその中にいる。私は今、素晴らしい天人だ。とても多くのかわいらしい少女が私に仕えている。私は神酒を飲み物としている」、または「ここは死の領域だ。ここには死の神がいる。これらは死の神の使いだ。ああ、彼らはとても冷酷だ-彼らは私を地獄へ投げ入れる!」、または「ここはピトリス(*6) の領域だ、もしくはブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの領域だ」など。そのように、それらの性質に応じ、過去のカルマの潜在性は、誕生、死、天国への道、地獄、その他の領域という幻として自らの前に現れますが、自らはいつも不変の意識の虚空のままあります。それらは心の迷妄に過ぎず、現実ではありません。

 (114)意識の虚空である自らの中に、世界という現象が空中に見られる天空都市のように存在します。それは現実であると想像されていますが、実のところ、そうではありません。名と形が世界を形作っており、それ以上の何ものでもありません。

弟子:(115)
 師よ、私だけでなく他の全ての人が、意識ある存在と意識のないものからなる、この世界を直接的に経験し、それを真実であり、現実とみなしています。どうしてそれが非現実であると言われているのですか。

師:(116)
 世界は、その一切の内容物と共に、意識の虚空の上に付加されているだけです。

弟子:
 それは何によって付加されたのですか。

師:
 自らについての無知によって。

弟子:
 それはどのように付加されたのですか。

師:
 意識ある生命と意識のない物体の絵が背景の上に風景を示すように。

弟子:(117)
 聖典は、この世界すべてはイーシュワラ(*7)の意思によって創造されたと言明していますが、あなたは自分自身の無知によると言います。どうすれば、この二つの言明が調和できますか。

師:(118)
 矛盾はありません。聖典が言うこと-イーシュワラがマーヤーという手段によって五つの要素を創造し、多様な全世界を作るために様々な方法でそれらを混ぜ合わせた-は、全て誤りです。

弟子:
 聖典がどうして誤ったことを言えるのですか。

師:
 それらは無知な人への導きであり、表面的に思われるようなことを意味していません。

弟子:
 それはどういうことですか。

師:
 人はまさしく完全な意識の虚空であるという自らの本質を忘却し、無知により惑わされ自分自身を体などと同一視し、自分自身を平凡な能力の取るに足らない個人とみなします。彼に彼が全世界の創造者であると告げるならば、彼はその考えを馬鹿にし、導かれるのを拒絶します。そのように、彼の水準に降りて、聖典はイーシュワラを世界の創造者に据えています。しかし、それは真理ではありません。しかしながら、聖典は有能な探求者に真理を明らかにします。あなたは今おとぎ話を難解な真理と間違えています。これに関連して、あなたはヨーガ・ヴァーシシュタの子供の物語を思い浮かべるかもしれません。

弟子:(119-134)
 それは何ですか。

師:
 それはこの全世界の空虚さを例示する見事な物語です。それを聞くなら世界が現実であり、イーシュワラの創造物であるという誤った概念は全て消えます。手短に言えば、物語は以下のようになります。-子供が乳母に面白い話をしてほしいと頼みました。それに従い、彼女は以下の話を語りました。

乳母:
 昔むかし、その母親が不妊である大変に力のある王が三世界全てを支配していました。彼の言葉はそれらの世界の王達にとって法でした。不妊の母の息子は、世界を作り、世話し、破壊する並々ならぬ幻の力を持っていました。彼は意のままに、白、黄、黒の三つの体のどれでも身につけることができました。彼が黄色の体を身につけた時、彼は衝動にかられ、魔術師のように都市を創造したものでした。

子供:
 その都市はどこにあるの。

乳母:
 空中にぶら下がっています。

子供:
 なんて呼ばれているの。

乳母:
 絶対的な非現実です。

子供:
 どのように造られているの。

乳母:
 都市には一四本の立派な道路があり、それぞれ三つの区域に分けられ、その中にそれぞれ沢山の楽しい庭園、巨大な館、そして、七つの水槽があり、真珠の首飾りで飾られています。二つの灯-一つは温かく、もう一つは涼しい-がいつも都市を照らしています。その中に、不妊の母の息子は多くの快適な家を建て、いくらかは高地にあり、いくらかは中地にあり、その他は低地にありました。それぞれの家は、黒いビロードのような屋根、九つの門、風を入れるためのいくつかの窓、五つの灯、三本の白い柱、上手に漆喰が塗られた壁を備えていました。魔法により、彼はそれぞれの家を守るために恐ろしい幽霊を作り出しました。鳥が巣へ入るように、彼はそれらの家のどれにでも意のままに入り、好きなように遊びました。

 (135-140)黒い体で、彼は幽霊の番人を通じてそれらの家を守ります。白い体で、彼はそれらを瞬く間に灰へと帰します。不妊の母の息子は、愚か者のように気まぐれにくり返し都市を作り、守り、破壊します。かつて彼は仕事の後で疲れ、蜃気楼の飲み水の中で水浴びをして再び元気づき、空から集められた花を誇らしげに身につけました。私は彼を見ました。壊れたガラスの破片の輝きから作られた宝石からなる四つの首飾りと、真珠層の銀からなる足首飾りをあなたに贈るために、彼はすぐにここに来ます。

 子供はこの物語を信じて喜びました。この世界を現実であるとみなす愚か者も同様です。

弟子:(141-148)
 この物語はどのようにその狙いを例示していますか。

師:
 説話の子供は、世界の無知な人です。乳母とは、イーシュワラによる創造について語る聖典です。不妊の母親の息子とは、マーヤーから生まれたイーシュワラです。彼の三つの体は、マーヤーの三つの性質です。彼が体を身につけることは、ブラフマー、ヴィシュヌ、ルドラの側面です。黄色の体で、全世界を貫通する(生命の)糸であるブラフマーは、意識の虚空の中にそれを創造します。意識の虚空は、寓話の空中に対応します。その名前は絶対的な非現実です。一四本の立派な道路とは、一四の世界です。楽しい庭園とは、森です。館とは、山々の連なりです。二つの灯とは、太陽と月です。真珠の首飾りで飾られた豪華な水槽とは、多くの川が流れ入る大海です。

 (149-155)高地、中地、低地に建てられた家とは、天人、人間、動物の体です。三本の白い柱とは、骸骨です。壁の漆喰とは、皮膚です。黒い屋根とは、その上に髪がある頭です。九つの門とは、体の九つの導管です。五つの灯とは、五感です。幽霊の見張り人とは、自我です。

 今や、マーヤーという不妊の母の息子、王イーシュワラは、体という家々を建て、思いのままにジーヴァとしてその中に入り、自我なる幽霊と一緒に楽しみ、無目的に動き回ります。

 (156-160)黒い体で、彼はヴィシュヌ(さもなければ、ヴィラートとして知られている)として働き、世界を維持します。破壊者、一切に住まうものであるルドラとしての白い体で、彼は全世界を彼自身の中へ引き込みます。これが彼の戯れであり、彼はそれを楽しんでいます。この楽しみは、王が蜃気楼の水の中で再び元気づくことであると言われています。彼の誇りとは、彼の支配権についてです。空からの花とは、全知全能という属性です。足首飾りは、天国と地獄です。ガラスの輝きからなる四つの首飾りとは、ムクティの四段階です。それらはサーローキャ、サミピャ、サルピャ、サユジャ(*8) であり、地位、立場、力、最終的な同一性において等しいことを意味します。贈り物をするための予期される王の到来は、信奉者の願いをかなえる聖像の崇拝です。

 このように、聖典の無知な生徒はその無知に惑わされ、世界が現実であると信じます。

弟子:(161)
 仮に、天国や地獄や無上の幸福(ムクティ)の四段階が全て誤りであるなら、聖典の一部において、どうして天国や無上の幸福を得るための手段を定めているのですか。

師:(162-164)
 子供がお腹の痛みで苦しむのを見て、優しい母親は子供に胡椒を与えたいと望みますが、子供が胡椒を嫌い、蜂蜜を好むことに気づき、その口に胡椒を押し込む前に優しく子供を蜂蜜の香りでなだめすかします。同じように、聖典は憐れんで、無知な生徒が世界で苦しむのを見て、彼に真理を悟らせたいと望みますが、彼の世界への愛着と微妙で理解することが難しい不ニの現実への嫌気を知り、むき出しの不ニの現実を提示する前に、天国などの甘美な楽しみで優しく彼をなだめすかします。

弟子:(165)
 天国などの概念が、どうして彼を不ニの現実へ導くのですか。

師:
 善行により天国は得られます。苦行やヴィシュヌへの献身により、至福の四段階が(得られます)。それを知り、人はそれらの中で好むものを修練します。いくつかの転生において繰り返し修練することにより、不ニの現実という最高の教えを受け取るため、彼の心は純粋になり、感覚の楽しみから遠ざかります。

弟子:(166)
 師よ、天国や地獄などが虚偽であると認めるとしても、どうして聖典によって大変多く言及されるイーシュワラもまた非現実であると言明しうるのですか。

師:(167)
 栄華を極めるイーシュワラを扱う文章は、「イーシュワラはマーヤーの産物であり、ジーヴァは無知の産物である」と言う他の人により受け継がれています。

弟子:
 聖典はどうして異なる趣旨の文章でもって矛盾しているのですか。

師:
 聖典の目的は、善行、苦行、献身というような自分自身の努力により、生徒に彼の心を清めさせることです。彼をなだめすかすため、それらは彼に楽しみをもたらすと言われています。それら自体は意識がないので、自発的に結果を生み出せません。そのため、全能であるイーシュワラが行為の結果を分配すると言われています。このようにしてイーシュワラが舞台に登場します。後に、聖典はジーヴァ、イーシュワラ、ジャガット(世界)が等しく全て虚偽であると言います。

 (168)幻の産物であるイーシュワラは、眠りの産物である夢の対象物以上に現実的ではありません。彼は無知の産物であるジーヴァ、もしくは、眠りの産物である夢の対象物と同じ範疇にいます。

弟子:(169-174)
 聖典はイーシュワラはマーヤーの産物であると言います。彼がどうして無知の産物であると言えるのですか。

師:
 我々が一本の木、もしくは、森全体について話すように、自らについての無知は、個別に、もしくは、全体的に働けます。全世界の全体的な無知がマーヤーと呼ばれています。その産物であるイーシュワラは、ヴィラートとして全世界の目覚めの状態で働きます。また、全世界の夢の状態でヒランヤガルバとして(働き)、そして全世界の深い眠りの状態で内に住まう者として(います)。彼は全知全能です。創造する意思に始まり、一切の生き物に入ることに終わり、これが彼のサンサーラです。個人の無知は単なる無知であると言われています。その産物であるジーヴァは、それぞれヴィシュヴァ、タイジャサ、プラージニャとして個人の目覚め、夢、眠りの状態において働きます。彼の知識と能力は限られています。彼は行為者であり、楽しむ者であると言われています。彼のサンサーラは、現在の目覚めの活動と最終的な解放の間にある一切から成り立っています。このように、聖典はイーシュワラ、ジーヴァ、ジャガットが全て幻であることを明確にしています。

弟子:(175-179)
 では、師よ。縄についての無知が蛇のみの幻を生じ得るのとまさしく同様に、人の無知も自分自身がジーヴァであるという幻を広げるかもしれません。しかし、どうしてそれが拡大され、イーシュワラとジャガットの幻も同様に創造し得るのですか。

師:
 無知は部分を持ちません。それは全体として働き、三つの幻を同時に作り出します。ジーヴァが目覚めと夢の状態で現われる時、イーシュワラとジャガットもまた現われます。ジーヴァが溶け込む時、他のものも溶け込みます。これは我々の目覚めと夢における(三つの)顕現と深い眠り、気絶、死、サマーディにおけるその消失の体験により証明されます。

 さらに、知によるジーヴァ性の最終的な消滅と同時に、他のものもまたそれと共に消滅させられます。無知がその付随する幻と共に完全に失われ、自らとしてのみ自覚する聖者は、直接的に不ニの現実を体験します。ですから、自らについての無知が三つの幻全て-ジーヴァ、ジャガット、イーシュワラ-の根本的原因であるのは明白です。

弟子:(180)
 師よ、仮にイーシュワラが無知の幻とするなら、彼はそのように現れるはずです。そうではなく、彼は世界の起源として、我々の創造者として現れます。イーシュワラとジャガットが共に幻の産物であるというのは筋が通っていると思われません。彼は我々の創造物として現れずに、我々の創造者として現れます。それは矛盾してはいませんか。

師:(181-183)
 いいえ。夢の中で夢見る人は、昔に亡くなった彼の父親を見ます。父親は彼自身によって夢の幻として創造されますが、夢見る人は一方の人は父親で、彼自身は息子と思い、彼自身の創造物である父親の財産を相続したとも思います。さあ、夢見る人がどのように個々人と物事を創造し、彼自身をそれらと関連付け、それらが以前からあり、彼が後からやって来たと思うのか見なさい。これは不可能を可能にするマーヤーの奇術に過ぎません。

弟子:
 マーヤーはどうしてそれほど強力なのですか。

師:
 何の不思議もありません。どのように普通の魔術師が一切の観衆に空中にある天空都市を見せられるのか、もしくは、どのようにあなた自身が夢の中にあなただけの素晴らしい世界を創造できるのか見なさい。そのようなことが劣った力の個々人に可能ならば、どうして全世界の本質的な原因であるマーヤーにその他のことが可能ではないのでしょうか。結論すると、イーシュワラ、ジーヴァ、ジャガットを含む、この一切は、人の無知から生じ、唯一の現実である自らの上に付加された幻の見せかけです。

 これは我々を付加を取り除く道を考えるように導きます。

(*1)アドヤーローパ・・・adhyaropa、文字どおりの意味は「虚偽の見せかけ」。付け加えられたもの。
(*2)ターパトゥラヤ・・・①自分の体と心から起こる苦しみ(病気、痛み、怠惰など)。②外界から起こる苦しみ(動物、人間、自然災害など)③超感覚的な神々や幽霊などから起こる苦しみ
(*3)プラダーナ・・・文字どおりの意味は「前に置かれたもの」で、「世界の元になるもの、物質的原因」
(*4)アヴヤクタ・・・文字どおりの意味は「顕現しない・形を欠く」
(*5)形態・・・英語の「mode」の訳。「存在の仕方、特定の状態」などとも訳せる
(*6)ピトリス・・・文字道理の意味は「父」、亡くなった先祖の霊
(*7)イーシュワラ・・・文字どおりの意味は「全世界の主」。ブラフマー(創造者)、ヴィシュヌ(維持者)、シヴァ(破壊者)の3つの姿で現れる人格神。別に、サグナ・ブラフマンとも言う。
(*8)4種のムクティ・・・サーローキャは「神と同じ世界に住むこと」、サミピャは「神と個人的に交際すること(神の近くに住むこと)」、サルピャは「神と同じ体を持つこと」、サユジャは「神と一体になること」

4 件のコメント:

  1. こんにちは!

    マハルシの教えにそっくり!ですねぇ~
    (*^_^*)

    僕はマハルシの教え(Talks)以外、ほとんど知識がありませんが、「3つの身体(状態)」とか、「第4、第4を超えた状態」ってのは、インドでは常識?なのでしょうか?

    もしご存知でしたら教えていただけると助かります。
    m(_ _)m

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    1. こんにちわ。

      私もインド宗教全般の知識はないのでよくわからないのですが、「第4の状態」はMandukya Upanishad(マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド)には言及されているようです。 シャンカラーチャーリアの師であるシュリー・ガウダパーダが8世紀ごろにそれの注釈を書いているので、それぐらい古くからある言葉みたいです。

      専門的な分野なので、さすがにインドの常識ではないでしょう。我々みたいに宗教的な勉強してる人には常識かもしれませんね。もしかすると、「涅槃、煩悩」みたいに皆なんとなく知ってる宗教用語なのかもしれませんね。

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  2. マハルシの話されている内容とほとんど同じなので、正直びっくり!ってカンジなのですが、まぁ、マハルシだけが真我にとけ込まれたわけではないので、なるほど! というか、ホントにそうなんだなぁ、、、って感慨深げです。

    shibaさんの翻訳、とても役に立っています!
    本当にありがとうございます!!!

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    1. 聖者の伝統が彼らの体験により連綿と受け継がれているのは、学ぶものにとって自信になりますね。

      アドヴァイタ・ボダ・ディーピカ、第二章にご期待下さい。

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