2013年8月12日月曜日

委ねの本質、感情の制御、ヴァルナーシュラマの必要性、自我の追跡

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p84~87

 読みやすいように文章を少し変え、対話形式にしています。(文:shiba)

46年1月2日 午後 

 ジョーシー氏が、バガヴァーンが質問用紙と呼ぶものを提出しました。そして、バガヴァーンがそれに答えます。

バガヴァーン:(はじめに、ジニャーニが心を持たず務めを行うことについて)
 あなたは心が破壊されるならば、人は務めを行えないと想像しています。どうして人に務めを行わすことができるのは心だけであると思うのですか。活動を生み出すことができる他の原因もまたあるかもしれません。例えば、この時計をご覧なさい。心を持たずに動いています。また、我々が「ジニャーニは心を持つ」と言うと仮定しましょう。彼の心は普通の人の心と大いに異なります。彼は心をまったく何か遠くの物事へ向けて話を聞いている人のようです。ヴァーサナーが取り除かれた心は、務めを行っていても、務めを行っていません。逆に、心がヴァーサナーで満ちているならば、体が活動的でなかったり、動いていなくても、心は務めを行っています。

質問2:
 ソーハム(*1)は「私は誰か」と同じでしょうか。

バガヴァーン:
 アハム(*2)だけがそれらに共通しています。一方はソーハムであり、もう一方はコーハム(*3です。それらは異なります。どうして我々はソーハムと言い続けなければならないのですか。人は本当の「私」を見出さねばなりません。「私は誰か」という質問において、「私」は自我を意味します。それを追跡し、その源を見つけようと試みるなら、我々はそれが分離して存在せず、本当の「私」に溶け込むことが分かります。

質問3:
 私は委ねのほうが容易であると感じます。その道を採用したいと思います。

バガヴァーン:
 どの道を通ってあなたが行っても、一者(the One)の中にあなた自身を失わねばなりません。委ねは、あなたが「おん身は全てである」や「おん身の御心が果たされんことを」という段階に達する時にのみ完全です。その境地はジニャーナと異なりません。ソハムには、ドゥヴァイタが存在します。委ねには、アドヴァイタが存在します。実際には、ドヴァイタもアドヴァイタも存在せず、在るそれが、在ります。委ねは容易に見えます。なぜなら、人々がいったん口で「私は委ねます」と言い、彼らの重荷を主へ置くなら、彼らは自由になり、好きなことができると彼らは想像するからです。しかし、実のところ、委ねの後にあなたは好き嫌いをまるで持てず、主の御心が取って代わり、あなたの意思は完全に存在しなくならねばなりません。そのような自我の死はジニャーナと何ら異なりません。ですから、どの道をあなたが行こうとも、あなたはジニャーナ、もしくは、一体性へ行かねばなりません。

質問4:
 どのように私の感情を取り扱うべきでしょうか。私はそれを抑制すべきですか、満たすべきですか。私がバガヴァーンの方法に従い、「これらの感情は誰にあるのか」尋ねるなら、それらは消滅せず、より強力になるようです。

バガヴァーン:
 それはあなたが私の方法に適切に取り組んでいないことを示しているだけです。正しい道は全ての感情の根元、それらが出てくる源を見出し、それらを取り除くことです。あなたが感情を抑制するなら、しばらくの間は抑えられるかもしれませんが、再び現れます。あなたが感情を満たすなら、それらはしばらくの間だけ満たされますが、再び満足を渇望します。欲望を満足させ、それによって欲望を取り除こうと試みることは、灯油をかけることによって火を消そう試みることのようです。唯一の道は、欲望の根元を見出し、そうして、それを取り除くことです。

別の訪問者:
 私が「私は誰か」という探求を試みるなら、私は眠りに落ちます。私は何をすべきですか。

バガヴァーン:
 あなたが目覚めている間中ずっと探求を継続しなさい。それで全く十分でしょう。あなたが探求を眠りに落ちるまでし続けるなら、探求は眠りの間も続きます。目覚めればすぐに、探求を再開しなさい。

別の訪問者:
 国が進歩するためには、ヴァルナーシュラマ(*4)の違いが無くなるのが必要ではありませんか。

バガヴァーン:
 どうしてそれが必要であるのか、必要でないのか言えるでしょうか。私はそのような問題について何も言いません。人々はしばしばヴァルナーシュラマについての私の意見を尋ねにやってきます。もし私が何か言うなら、彼らはすぐに新聞に発表しに行きます。「何某(なにがし)もこれこれの意見です」。ヴァルナーシュラマ・ダルマを定めた同じ聖典が、全ての生命の一体性、そして、アブヘダ・ブッディ(*5)を唯一の現実として示してもいます。全ての生命の合一性、もしくは、一体性より優れた真理を教えることが誰かできますか。誰も自分自身を改める前に、国民や国を改革し始める必要はありません。各々の第一の義務は、彼の本質を実現することです。それをした後で、国民や国を改革したいと思うならば、ぜひとも彼をそのような改革に従事させましょう。ラム・ティールタ(*6)は、「改革者求む-ただし、はじめに自分自身を改める改革者」と広告を出しました。世界に二人として同じにはなれず、同じ様には振る舞えません。どれほど懸命に我々が消し去ろうと試みようも、外側の相違は必ず継続することになります。ヴァルナーシュラマが作りだしたそのような階級や区分をなくそうとする、いわゆる社会改革者の企ては成功しておらず、新しい区分を作りだしただけであり、ブラフモ・サマージストやアーリヤ・サマージストのような2、3のカーストや階級をすでに存在しているものに更に付け加えました。各々にとっての唯一の解決策は、彼の本質を実現することです。
 
別の訪問者:
  一般的に、ジニャーニは活動的な人生から退き、どのような世俗的活動にも従事しません。

バガヴァーン:
 そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。ある人々は実現した後も貿易や商売を続けたり、王国を統治します。ある人々は森に隠遁し、体の生命を維持するために絶対的に必要なもの以外の一切の行為を控えます。ですから、全てのジニャーニが活動を放棄し、人生から退くと我々は言えません。

訪問者:
 私はバガヴァーンが我々の本で言及されている肉屋のダルマヴィヤーダような、今生きていて、人生で普通の日常の務めを行っているジニャーニの具体的な例をあげられるのか知りたいのです。

バガヴァーン:
 (沈黙)

訪問者:
 自らの実現のために放棄は必要ですか。

バガヴァーン:
 放棄と実現は同じです。それらは同じ境地の異なる側面です。自らでないものを捨て去ることが放棄です。自らに住まうことがジニャーナ、または、実現です。一方は、同じただ一つの真理の消極的な側面であり、他方は積極的な側面です。バクティ、ジニャーナ、ヨーガは、我々の本質である自らの実現、または、ムクティの別名です。はじめ、それらは手段として見えます。終には、それらは目的となります。バクティ、ヨーガ、ディヤーナなどを続けるために、あなたの側に要求される意識的な努力がある限り、それらは手段です。それらがあなたの側の何らの努力なしに進む時、我々は目的を達成しています。達成すべき実現は存在しません。現実は、常にあるがままにあります。我々がしていること、それは我々が非現実のものを実現している、つまり、非現実を現実とみなしているということです。我々はそれを捨て去らねばなりません。それが求められる全てです。

訪問者:
 どのようにして非現実がやって来たのですか。現実から非現実が生じうるのしょうか。

バガヴァーン:
 それが生じたのか確かめなさい。別の立場からは、非現実のようなものは存在しません。自らのみが存在します。あなたが自我-それのみに基づき世界と全てが存在しますが-を追跡しようと試みる時、あなたは自我がまるで存在せず、この全ての創造も同様であると分かります。

(*1)ソーハム・・・「彼/それは私である」
(*2)アハム・・・私
(*3)コーハム・・・「私は誰か」
(*4)ヴァルナーシュラマ(ダルマ)・・・カーストの序列や人生の段階、カーストや人生の段階に属する義務
(*5)アブヘダ・ブッディ・・・相違の概念をもたない知性
(*6)ラム・ティールタ・・・ラーマ・ティールタのことで、ラムはラーマの短縮形。1873年から1906年。ヴェーダーンタ哲学の教師。日本にも来ていたようです。

0 件のコメント:

コメントを投稿